抱っこしなかった「死産の娘」母の罪悪感が消えた理由

生野由佳
生野由佳
画家の義母、中島敬子さんが描いたイラスト。夢の中で「ぴよちゃん」を抱っこする祐子さんと夫
画家の義母、中島敬子さんが描いたイラスト。夢の中で「ぴよちゃん」を抱っこする祐子さんと夫

 ようやく「こたえ」が出た。ママを守ってくれたんだよね――。

 激震が起きた29年前のあの日。今も昨日のことのようによみがえる。

 陣痛だと疑わず、内診台に上がった。

 看護師の顔色が変わる。

 赤ちゃんの心拍が確認できない。

 緊急手術になった。一筋の涙がほおを流れた。

 産声はない。

 翌日、看護師に尋ねられた。

 「抱っこされますか」

初めての「陣痛」に疑わず

 浜松市の中島祐子さん(59)は当時、おなかにいる女の子の誕生を家族で待ち望んでいた。第1子の長男(2)が名付け、「ぴよちゃん」と呼んでいた。

 里帰り出産のため、浜松から名古屋の実家に帰省中の1995年1月17日午前5時46分、大きな揺れで目を覚ます。

 兵庫県南部を震源とした阪神大震災。テレビに、建物がなぎ倒された被災地が映し出された。

 「おばあちゃん、大丈夫かな?」

 祖母は兵庫県西宮市で、昔ながらの木造家屋に暮らしていた。無事を確認したいが、電話回線はパンクし、つながらない。

 近所に住む義母も心配し、実家に駆けつけてくれた。祖母の安否が分からないまま正午が過ぎたころ、おなかの強い張りに気付く。「これが陣痛なんだ」

 1人目は帝王切開で、初めての痛みだった。運転できない両親に代わり、義母は迷わず車を出してくれた。

騒然とした診察室

 病院に着くと、すぐ診察を受けた。しかし、ただならぬ雰囲気に包まれる。助産師が語気を強めた。

 「心拍が確認できません」

 「すぐに主治医を呼んで」

29年前、「ぴよちゃん」のひつぎの上に置いたブリキの猫のおもちゃ
29年前、「ぴよちゃん」のひつぎの上に置いたブリキの猫のおもちゃ

 胎盤から子宮が離れ、出血する「常位胎盤早期剥離」だった。医師は告げた。

 「残念ながら赤ちゃんは亡くなっています」

 「お母さんの命も危ない」

 病院に到着してから十分ほどで、事態は一変した。

 頭が真っ白になった。内診台であお向けのまま、手術の同意書にサインした。

 数時間後、目が覚めたのは病室のベッドの上。心配そうにのぞき込む両親の顔があった。第一声は、「ごめんなさい」

 <ぴよちゃん、死なせてしまってごめんなさい>

 <みんなが楽しみにしていたのに、悲しませてしまってごめなさい>

「抱っこしますか」

 翌日、看護師から問われた。

 「亡くなられた赤ちゃんを抱っこされますか」

 「抱っこしたい」と思った。だが、夫が苦渋の面持ちで反対した。「つらい姿が記憶に残るからやめておこう」

 夫がそう言うならと、熟慮する間もなく受け入れた。だが、この決断が長い時間、祐子さんを苦しめることになる。

 あの日からぴよちゃんを思わない日はない。幸い祖母は無事が確認された。

 祐子さんは妊娠中毒症と診断されていた。その病状の怖さを自覚していなかったのではないか。

 私がぴよちゃんを死なせた。

 私は生きていていいのだろうか。

 自責の念にかられた。

罪悪感にさいなまれる日々

 同じような境遇の友人と思いを共有しようとした。だが、ひどく落ち込んだ。

 「赤ちゃん、抱っこしたらやっぱりかわいかったよね」

 触れられたくない部分だった。「抱っこしてあげられなくて」。絞り出した言葉に友人は言った。「えー。きっとかわいかったよ」

「ぴよちゃん」とブリキのおもちゃの「猫」は、お空で一緒に遊んでいるはずだ。画家の義母、中島敬子さんが描いた
「ぴよちゃん」とブリキのおもちゃの「猫」は、お空で一緒に遊んでいるはずだ。画家の義母、中島敬子さんが描いた

 顔なじみのおもちゃ屋のスタッフの言葉にも傷ついた。「2人目は産まない主義?」。屈託ない笑顔で話しかけてきた。

 相手はもちろん事情を知らない。「なぜ、私に言うの」。心の中で叫んだ。2人とは疎遠になった。

「難産体質」を自覚

 再びの妊娠は流産に終わった。祐子さんは「難産体質」を自覚し、最大限に注意を払った。4年後に次男が、10年後に長女が生まれた。

 妊娠中毒症の症状が重くなったら即入院し、早めに帝王切開で出産した。

 少し小さく生まれた子どもたちは新生児集中治療室(NICU)でケアが必要だったが、その後は元気に育った。

 3人の子育てに追われながら、「問い」に答えを出そうとしていた。

 <ぴよちゃんの命の意味は>

 <なぜ、阪神大震災の日にお空へ戻ったのか>

 そして20年の時をかけて自分なりの「こたえ」を導き出した。

見つけた「こたえ」

 あの日、震災が発生したから、義母が実家に駆けつけてくれた。

 そのタイミングで、おなかに強い張りが起きた。運転できる義母がいたからすぐに病院に向かうことができた。

 「母の命」も危ぶまれる状態だった。あの時、義母がそばにいなければ手遅れになっていたかもしれない。命を失っていたら「兄」は2歳で母を亡くしていた。

 そう考えると、胸にストンと落ちた。ぴよちゃんの寿命は決まっていた。ママの命を救うために、あの日を選んでくれた。ぴよちゃんが私を生かしてくれた――。

 「抱っこ」を止めた夫とは、「娘」の死に夫婦でこれまでになく泣き合った。この時、共に涙した時間が、夫婦の絆を強くしたと思う。

 今思えば「抱っこしたら良かったのに」と言った友人は、「赤ちゃんはかわいかったと共有したかっただけだろう」。「2人目は?」と聞いたおもちゃ屋のスタッフはただの世間話だったと思う。

 抱え続けてきた罪悪感が和らいでいった。

 祐子さんは言う。「とてもつらかったけど、ぴよちゃんは、私の命を救い、悲しみや苦悩、葛藤など人として大切な気持ちをたくさん教えてくれたのです」

3人の子どもたちへ「遺言」

著者の中島祐子さん(左)と、本の挿絵を描いた義母の敬子さん=祐子さん提供
著者の中島祐子さん(左)と、本の挿絵を描いた義母の敬子さん=祐子さん提供

 2022年春、持病が悪化し、手術が必要と告げられた。命は「有限」と突きつけられた気がした。子育てもほぼ終わった3人の子どもたちに、ぴよちゃんが教えてくれた「大切なこと」を書き残したいと思った。「私の遺言です」と祐子さん。

 思いを赤裸々につづり、記念に投稿コンクールに応募したところ、出版社から声がかかった。幸い持病は落ち着き、手術はまぬがれていた。

 23年10月、「こもれびゆう」のペンネームで、自伝「天国のぴよちゃんからの贈りもの」(文芸社)が完成した。

 ぴよちゃんへの思いがすべて詰まったその本が届いたとき、ぎゅっと胸に抱きしめた。すると、思わぬ感情に包まれた。

 「ぴよちゃんを、やっとこの手で抱っこできたと感じました」

読者とオンラインサロンを開催

 出版以降、多くの感想が寄せられている。流産、死産した「同士」からだ。

 祐子さんは「ぴよちゃん」の経験から40代で浜松大(現・常葉大)大学院に入学し、臨床心理学を学んだ。

 その専門性を生かし、浜松市で「同士」が集うサロン「タイニースターズ(小さな命の語り場)」を開いている。

 読者からの声に応え、新たに思いを語り合うオンライン会「ぴよちゃんサロン」も始めた。サロンの問い合わせは「こもれびゆう公式メルマガ」から。https://resast.jp/subscribe/246933

 「天国のぴよちゃんからの贈りもの」はアマゾンなどで購入できる。

【生野由佳】

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